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故郷・鹿児島の思い出
鹿児島出身で、家族の構成は、両親と妹が3人いる4人兄弟です。鹿児島には特徴的なところがいくつもあります。まず「人が情熱的である」こと。あと、温泉がある地域なので、温泉に行くとふれあいが多くあり、様々な人との出会いが多くあります。僕が大好きな故郷です。
「チャンスが見えるか、拾えるか」
鹿児島で父と車に乗っていた時です。高校生のときだったと思いますが、サッカーの練習に送ってもらう車の中で「今、世の中にはいくらでもチャンスが落ちている。それが見えるかどうか、拾い方を知っているかどうか。それで人生いくらでも変わる」ということを言われました。
父親が工務店を、母親は居酒屋をやっていました。両親とも非常に幸せそうに暮らしていましたし、おふくろの居酒屋には、お客として実家の工務店の職人とサラリーマンがよく来ていました。サラリーマンの人たちと職人気質の人たちはお酒の飲み方がまったく違っていて、サラリーマンの人は会社の悪口を言いながら飲んでいました。お酒もあまり強くありません。
逆に、職人の人たちはものすごく威勢がよくて、ポジティブな感じがしました。かつ、両親が幸せそうだったので、自分で何か商売をすることは、すごく幸せなことだと子供ながらに思っていました。「将来も自分で何かをやる。そのときは自分で何かビジネスをしたい」と思ったことが、起業を志した一番最初のきっかけでした。
同期や同級生が背中を押した
光通信に入ったとき、同期が10人位いました。そのメンバーで初日飲みに行って、将来は何をやりたいのかという話をしました。すると、7人が「起業したい」と話していました。
転勤で東京に行ったときには、小学校時代からの同級生の家に住ませてもらっていました。その彼が18・9歳ぐらいの年齢でしたが、もうすでに今でいうSOHO、自宅の中で起業していました。ハイスペックなパソコンがあり、そこで超高層ビルの設計しているのです。それを見て「やっぱり自分でやるっていいな」と思いました。そこで、起業する業種を決めました。
同級生の彼や光通信の仲間には、背中を思い切り押されましたね。
光通信は成長できる環境だった
光通信を選んだ理由は幾つもあります。その当時、社長がまだ24歳と若かったこと、そして、会社案内の写真からも勢いが溢れていたこと、情報通信に対する可能性や、実力主義であること、自分が頑張った分だけ評価してもらえること、などがとても魅力的だったからです。
僕は体育会出身で、サッカーをしていました。この会社は体育会のように非常に元気のいい会社で、自分自身を鼓舞していくことや周りを鼓舞していくこと、相乗効果を生み出すような環境がありました。
また、会社も仮想的なライバルを常に設定しています。そこに対してどうストレッチして、彼らをどう抜いていくのかを、リーダーだけではなく、全体が意識をしていました。そこに関しては、とても統率性があり、共感性もありました。これらの点で、この会社は非常に秀でている会社でした。