今回のインタビューでは、Ruby開発者のまつもとゆきひろ氏に「Ruby開発に至った経緯」「Ruby開発の苦労」や「エンジニアの幸せ」について伺いました。
まつもとゆきひろ氏の経歴
1965年生まれ、大阪府生まれ。プログラミング言語「Ruby」の開発者。
株式会社ネットワーク応用通信研究所フェロー、楽天株式会社楽天技術研究所フェロー、Rubyアソシエーション理事長Heroku チーフアーキテクト、株式会社VASILY技術顧問、島根県松江市名誉市民。
まつもと氏の大学時代
❚大学はプログラミングを学ぶには天国だった
中学校時代からコンピューターに関心があり、プログラミングについて勉強していたのですが、私のやりたいプログラミングと目の前にあるコンピューターとのギャップが凄く大きかったのです。
出身が鳥取県なので、コンピューターを勉強する仲間がほとんどいませんでしたし、本や資料も限られていました。
大学入学後はコンピューターに関していくらでも学ぶことができたし、図書館に行けば情報がものすごいたくさんありました。実習のコンピューターもあり、インターネットもあり情報交換もできる。田舎に比べるとプログラミングに関しては天国みたいでした。
一番印象に残っているのは、情報とコンピューターにフルアクセスできるようになったことです。
Ruby開発に至った経緯
❚紙のノートに書いた「僕の考えた最強の言語」が原点
PASCALという言語を勉強していたのですが、今まで使っていたBasicに比べると格段に良い言語でした。
ユーザーが自分でデータ構造を定義できたり、アルゴリズムを表現できたり、関数に名前をつけて表現できたりなど、なんて素晴らしい言語なんだと思いました。そしてプログラミング言語そのものに関心をもつようになりました。
まだ高校生でしたが、自分で作ってもいいのではないかなと思い、コンピューターもなかったのでノートを出してきて紙に「僕の考えた最強の言語」とコードを書いていたのが私の言語に関する原点です。
なんのプログラムを書くかにはあまり興味がなく、どういう書き方をするとプログラミングが楽しくなり、ユーザーにとって自分の考えをストレートに表現できるかに関心がありました。
Ruby開発の苦労
❚コミュニティの力が大きな助け
言語はアプリと違って、どのような使われ方をするか確定できません。
Rubyを使ってWEBアプリケーションを作る人、ツールを作る人、いろんな使われ方をします。きっとこうに違いないとデザインしても実際、ユーザーはそれを望んでいないこともありうるわけです。それが苦労といういえば苦労です。
日本語には文字エンコードが複数あり、Rubyを開発し始めた頃にはUnicodeが出始めた頃でした。
Unicodeは面倒くさいからいいやと思っていたのですが、ある日、Rubyユーザーの方からパッチ(プログラミングの変更点を書いたファイル)が送られてきたんです。パッチを適用するとUnicodeが使えるようになる、という内容でした。
大変だからしなくていいやと思っていたことが、メール一つで送れる量で変更できたことに驚きました。
今のRubyは80以上のエンコーディングを処理できますが、その元のアイデアは私自身はできないと思っていたことが、一通のメールが来たことで広まり、ここまできました。
私自身の発想よりもコミュニティの力が大きなパワーを持つと感じたエピソードです。
Ruby発展を支えたコミュニティの力
❚コミュニティから生まれたアイデアがRubyの発展に寄与
Rubyを公開した際、メーリングリストを作るので関心のある方は参加してくださいと書いたところ、2週間で約200名の方が参加してくれました。
最初のRubyは荒削りで、動かないところや上手くいかないところがあったのですが、そこに対してアイデアをくれる方もいて、それ以来メーリングリストやコミュニティの人数が大きくなりました。
最初の200名の方がアイデアをくださり、検討してその延長線上できた気がします。