障がい者と身近に接していた幼少期
障がい者と身近に接していた幼少期
学生時代は伊豆の下田という伊豆半島の暖かいところで育ちました。父親の仕事の関係で、病院の敷地内にある社宅で暮らしていました。
そこはリハビリを得意とした病院で、お相撲さんやスポーツ選手がケガをした時、その病院に来て長期間リハビリをしていました。
小学校から帰ると宿題をナースステーションの看護師さんに教えてもらったり、おやつを障がい者の方にもらったりすることは当たり前の生活だったのです。
ある時、退院が近づくとだんだんみんな元気がなくなることに気づきました。
普通、退院するとなれば嬉しいはずです。でも、そこにいる人達は退院が近づくと元気がなくなり、あまり笑わなくなってしまいます。
今まで楽しく過ごしていた方が、退院が決まってから何でこんな暗くなるのか、高校生の頃はすごく不思議でした。
今は障がい者雇用など色々な制度が充実しているので、社会に出ても元の職場に戻れることもありますよね。福祉用具が欲しければ助成金がもらえます。ですが、20何年前にはそういった制度はないわけです。
だから、病院にいる間はすごく恵まれて色々なことができますが、一歩社会に出て家に戻ることは、たぶんもの凄く不安だったのだと思います。
私はそれまで、病院の中でお仕事ができればいいな、リハビリの仕事や医者や看護師になりたいと思っていました。
ですが、そのことに気づいた途端、入院していた方が社会に出た時に希望を持って生きられるような、そういう仕事に関われたらいいなと考えるようになりました。それは高校生の頃でした。
そこで、そういう仕事はあるかなと思って探してみても、ないんですよね(笑)だから、何になりたいかもなくなっちゃっいました。
結局は医者か看護師かリハビリの先生か。でも、それは本当にやりたいこととは違うと感じていました。
そんなことを思いながらも、その当時大好きだった宮沢賢治を思い浮かべました。どこか、障がい者の人と宮沢賢治の時代の農家の方が重なって。
その時代のもの凄く大変な時期を生きていらっしゃる方と宮沢賢治は一緒に生活をして、「何かしたい」という想いを持ったんですね。
宮沢賢治みたいな暮らしをすると何か見えてくるのかなということから、「岩手に行きたい」と思ったんです。
みんなには「いや、やめておけ。想像を絶するぞ」と言われましたが、「想像を絶するぐらいの世界に入ると、何か見えてくる」と考えていました。
宮沢賢治と同じ暮らしがしたいというだけで岩手に来たんですよ。それが、東北に関わるきっかけになりました。