19歳で家業を継いでからの事業変遷
19歳で家業を継いでからの事業変遷
最初は父親が東大阪のプラスチックの下請け工場からスタートしました。本当に小規模な家内工業でした。
そんな父親が私が高校3年のときに病気になり、「あと1年しか保たない」と宣告されたので、長男ということもあり家業を継ぐしかありませんでした。
ですから、私は19歳から家業を継承しましたが、そのときはまだ年商500万円ぐらいの零細企業でした。
それを今のような企業に成長させたのは、やはり「人と同じようなことはしたくない」という気持ちと、「どうせならやはり自分が開発した商品をお客様に届け、メーカーとしての立ち位置をしっかりと作りたい」という想いでスタートしました。
最初は、第一次産業の水産・農業の仕事をやっており、海に浮かんでいるプラスチックの「浮き」。
前はガラスの浮きだったのをプラスチックに変えるとか、あるいは農業の場合は「育苗箱」という木箱で苗を作っていたんですが、それをプラスチックに変えるといったように、常に新しいイノベーションで市場を作ってきたのです。
おかげで倍々で大きくなり、大阪から宮城県に工場進出を行いました。26歳の時でした。
本当に快進撃で会社を大きくできたのですが、それに前後してオイルショックになりまして。
オイルショック当時は需要が一気に膨れ上がったので、我々も増産・増設していましたので、油が急に下がりだすと一気に需要がなくなり、当社も非常に苦しい思いをしました。
結局、効率の良いビジネスというのは、やはり浮き沈みがありますぅ。そう考えて、いかなる時代であっても利益の出せる仕組みを作りたい、そのためには生活に密着するのがいいのではないかということで、生活用品を自社で開発したのです。
問題は、お客様が北海道から沖縄までいることです。宮城県の仙台で作って、それを全国に届けようと思うと、物流コストが非常にかかるわけですね。
エリア・ローカルでやると、パイが小さいのでコストダウンができない。全国をベースにしてやろうとすると、物流拠点が足らない。
そういうジレンマの中で、結局は需要を創造していきながら、物流体制、全国展開の工場を作って行きました。これがなかなか大変でしてね。
一歩一歩、宮城県の工場から、兵庫県の三田に工場を作り、九州の鳥栖に工場を作り、北海道に作るという形で、全国8工場を作りました。
まだ売上が小さい中で先を見越し、そういうことを実行するのは、初めの10年間ぐらい非常に大変でした。
新しい市場の見つけ方
ホーム・ソリューションというか、家庭の中の不満を発見することが大事です。
ほとんどの企業はキャッチアップ型なんですよね。後発であれば先発のマーケットに対してアプローチしていく。あるいは、先行発売されている商品をブラッシュアップして競争力をつける。
ですが、当社の場合はそうではありません。
そういうビジネスは競争が激しいので、当社のように一旦ジリ貧になった会社は、資金力も底をつき、赤字でも頑張るという余裕がなかったのです。
そうなるとやっぱり、自社の強みを活かして、収益性があって将来性があるビジネスをどう見つけていくのかが一番のポイントになります。そのためには、人のやらないことをやるしかない。
たまたま当社の場合は、農業商品の育苗箱を作っていたのでそういう知見やノウハウがありました。それを園芸・ガーデニングの方に持ってシフトさせたということです。
儲かる・儲からないじゃないですよね。市場を小さいままで物事を見ないことです。
みんなお腹が空いている時代は食べ物さえあればよかった。これがどんどん、寒さがくると暖かい着物があった方が良かったという形で、だんだん産業が広がってきたわけですね。
ですが、「快適」というキーワードの中で、そういう商品開発をする会社がその当時ありませんでした。
そこで我々は「快適生活」という切り口で、気づかない分野を見つけ、「庭」あるいは「ペット」というようなところで広げてきたのです。
基本的には常に消費者の立場を考えることが大事です。
私も消費者、あなたも消費者です。自分の生活の環境を見て「何がほしいのか」を考えればいいわけです。
ほとんどの企業がキャッチアップ型で分析をするのですが、市場調査をして見えてくる市場というのは顕在化している市場なんですね。だから過当競争になってしまうんです。
潜在ニーズをどう掘り起こすかが一番のポイントですね。