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自社にはない技術を持つ会社と組み、製造の上流工程から仕事をもらえる関係性へ
ーオープンイノベーションへの取組を行うに至った経緯を教えてください
山本:私が代表になったのは2010年で、その頃はリーマンショックの直後でした。代表になって初年のときです。その直前までは、当社の主要なお客様は家電メーカーさんでして、当社の売上の8〜9割を占めていたんですけど、それがガタガタっと落ちてきました。
この10年で、今では5パーセント以下になったんですけど、会社としては大きく変化する時期でした。事業は「寄らば大樹」というか、口を開けていれば大手さんから仕事をもらえる関係性だったんですが、私が代表になるタイミングで大きくそれが変わったものですから、「これはちょっと新しい新規事業をせなあかんな」と思ったのがきっかけです。
当社は、もともと私の祖父から始まった会社です。メーカーさんの中で事業部というものが存在し、そこの製造工程の部分を外注、つまり当社のような会社に仕事を出される場合が多いんです。その仕事を待っているだけだと、なかなか新しい仕事に至らない。つまり、新製品を開発する段階から、お客様と接点をとる必要があるんですね。量産フェーズになってからだと、「じゃあ最初から東南アジアでつくるわ」という話になっちゃうわけです。
そうすると「いかに開発工程の段階からお客様のところに入るか」ということが大事になります。当社の中に開発できる力が最初からあったのかというと、ないわけです。そうすると、自社にはない技術をお持ちの企業さんと組んで、お客様のところへ行って、提案をする。そうすれば、開発の上流工程に入って、商談のチャンスがやってきます。
そういったところがオープンイノベーションというんですかね。今オープンイノベーション、オープンイノベーションと言っていますけど、元々は「上流工程から仕事をいただこう」「商談をいただこう」と考え、他社と組んでいた。そういう動機で始まったのが、元々のきっかけです。
経営を学ぶためにコンサルティング業界へ
ーどんなキャリアを積んで来られたのか教えてください
山本:私の祖父が創業して57年目になる会社なんですが、元々私は後を継ぐことを全く考えておらず。また、祖父や父から「継いでくれ」とは一切言われずに、「自分のやりたいことをやれ」と言われてきました。私もやりたいことをひたすらやる生き方をやっていたものですから、継ぐ予定は全くなかったんです。
同志社大学神学部に入り、「将来は牧師にでもなろうかな?」と思ったりもしたんですが、やっぱり色々と煩悩だらけでして(笑)。やりたいことがたくさんあるものですから、事業を起こしてみたいとか。そんな思いが強かったので、牧師になるよりも、社会に関わるような、もっと直接的な仕事がしたいと思いました。そう思ったのが大学生の頃、3回生か4回生くらいの頃ですかね。
私は大学生の頃に一度、卒業後に留学をし、2年ほど行っていました。そこでビジネススクールのサマースクールのようなものがあり、「英語力をもう少しつけたい」と思って短期間留学していました。帰国後、その頃はコンサルティング業界がブームでして。1990年代終わりの頃ですが、コンサルティング業界を受けました。目的は、その頃から多少なりとも、企業経営への関心は持っていたんですね。両親の背中姿を少し見たりとかしながら、経営にまつわることは少しなりとも関心を持っていたんでしょう。
コンサルティング業界は、経営者の方と直接お会いして、仕事のご提案をさせていただいたり、課題解決について経営者と一緒になって考えさせていただくような機会があります。であれば、「経営に関することが直接学べるんじゃないか?」と当時思ったわけです。それで、コンサルティング業界に入り、東京でしばらく勤めていました。
20代後半になって「いずれは後を継ぐもあり得るかもしれない」と少し思い始めました。当時は城南電器工業所という名前だったんですが、今はJOHNANという会社名です。その頃、祖父が間もなく亡くなりそうな状態で、父からは「爺ちゃんがいつ死ぬかわからないから、早く戻ってこい」と言われまして。「後を継ぐというか、一緒に仕事をしたいと思うんだったら」という声があり、戻らさせていただき、一緒に仕事をするようになったのが入社の経緯です。
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お客様の生産計画に柔軟に対応し、利益確保のために悩んでいた経営陣
ー実際に城南電器工業に入った時の印象を教えてください
山本:よく覚えているのは、一番最初に参加した取締役会です。皆タバコを吸っていて、中の空気が青いというんですか、タバコの煙で。皆、短期の売上や利益計画に対して実績がどういう状況にあるのかとか、そういったことを喧々諤々と議論していました。
でも受託の製造ですから、お客様の生産計画そのものに直接影響を与えられるわけではありません。お客様は生産計画をどんどん変えられますから、それに応じて臨機応変に生産体制を考えなきゃいけないので、随分と悩みながら当時の経営陣が経営をしていたのを、まざまざと見る機会がありました。
あとは、実際に工場へ行くこともありました。お客様から支給された材料を加工して、装置の稼働率を上げることが収益に直接繋がるから、それに繋がるような施策を一所懸命やっていまして。一方で、現場においても改善活動、日本でいえば、ものづくりをやっている会社であると、QC活動があると思いますが、そういったものが、生産現場それぞれに小さいグループがありまして。そのグループごとに、「目の前にある自分達が担当している生産現場の課題についてどう改善すればいいのか?」ということを提案するような、よく言う、QCサークル大会のようなものが行われていました。そんな現場を思い出しますね。
既存事業だけではなく、新しい価値をつけないと会社として生きていけない
ー事業転換を考えたタイミングについて教えてください
山本:私はアメリカのビジネススクールに留学していました。2年ほど授業を受け、ビジネススクールでインターンシップなどを受けながら、留学を終えて、ビジネススクールのホルダーになって、日本に戻ってきたのが2007年の頃です。
間もなくリーマンショックがやってくるんですね。それこそ売上が一時的に半分近くに減るような時期もありました。当社は借入にある程度依存しながら、手元資金の営業キャッシュフローも使いながら経営していたので、やはり2期・3期連続で赤字になると、手元の資金がだんだん難しくなってきます。
下手すると倒産になってしまうことになりますから、やはり幅広い意味での人員整理を行っていく必要がありました。ここが大きな転機でしたね。つまり、何を残して、何を残さないのか、という判断ですね。ここが非常に問われたときでした。
それこそ従来型の仕事、今なお存在していて極めて大事な事業ですが、それに加えて新しい価値をつけないと、会社としても生きていけないことを痛切に感じた時でしたね。