宮沢賢治のような人生を求め、教員養成学校へ
宮沢賢治のような人生を求め、教員養成学校へ
「教師の仕事がしたいから教員になる」というより、「宮沢賢治と同じような人生を1回歩んでみたい」と思っていました。
ですが、農業はさすがにわからないので、教員に決めました。教員なら障がいのあるお子さんとかとも関わりが持てると思い、教員の養成をする学校に行きました。
卒業が近くなると、教員養成の学校なので、周りは就職というよりも教員採用試験を受けていきます。
その時、私は「教員は少し違う」と思っていて、進路をどうしようかと思っていたところ「宮沢賢治の理想郷をつくる」という人がテレビの中で熱く語っていたんです。そこで、「ああ、すごい。ここで働きたい」と思ったわけです。
その方は、盛岡にある「あずまや」という老舗のわんこそば屋の社長だったんですね。わんこそば屋さんが、障がい者の方が暮らせる理想郷をつくろうとしていました。
当時、障がい者施設は少し街から離れたところにあったのですが、健康な人は田舎暮らしをしたい人もいれば都会で暮らしたい人もいるし、どちらかを選ぶことができます。
だけど障がい者の人は強制的にそこに行かせられちゃうんですよね。そこで農作業しかできないと思われて。
あずまやの社長はそこで、都会で暮らしたい人は都会暮らしを選べて、田舎で暮らしたい人は田舎を選べる。そして、田舎で暮らすときにも、動物と接するのが好きな人は動物と接したり、ハーブを育てたいという人はハーブを育てるというように、色々な選択肢があってもいいじゃないかと考えていました。
「これだ!」と思って訪ねて行ったのですが、まだできてないんですよね。「つくるんだ」という夢を語っていただけなので(笑)
「そこで働きたい」と申し出ると、「いいけど、数ヶ月一緒に障がい者と暮らしなさい。そういう経験はないでしょう」と言われました。
私は身体障がい者と一緒にいたことはあるのですが、知的障がい者のみなさんと一緒にいたことはなかったので、そういう世界をちゃんと知ろうと思い、クリスマスやお正月をずっと一緒に過ごしました。
その方たちの生い立ちを見ていくと、やはりトレーニングを一切受けていないのです。結果、知的障がいで何もできない状態になっていました。
例えば、その頃は田舎の方に行くと家の奥の方にずっと隔離されていたりしていました。ずっとそこにいるから言葉がわからずにしゃべれないのか、しゃべらないのかさえもわからないのです。
障がい者でも幸せに暮らせる環境を作る人たちはいると思いましたが、やはりリハビリは大事だと思いました。その時に勉強をしたいと初めて思ったんですよね。
小さい頃はリハビリを身近で見ていました。重要だと思ったことはなかったので、社会に出てからリハビリの大事さに気づきました。
医療系のベンチャーに入社する前に、私は履歴書に書ききれないぐらいの職を経験しているんです(笑)
その設立メンバーとして所属していたにもかかわらず、「これからというところで辞めるなんて、なんだ」という話になるのですが、「2~3年ぐらいいれば、この施設もそういうところが改善されてくるよ」と言われました。
ですが、やはり毎日24時間一緒にいて、何もできない状況を毎日見ていると苦しくなりますよね。
何とかするには、環境を変えるよりも自分が動くしかないので、「リハビリの学校に入りたい」と考え、リハビリ学校に入りました。
患者さんのところに行って実習で話を聞いたりしても、やはりリハビリは早いうちから頑張ればあらゆる可能性が見えてくると思ったので、そこで一生懸命頑張って資格を取ろうと考えました。
そこではいただいた奨学金で授料と日々の生活を過ごしていましたが、2~3年した頃に理学療法士の資格を取るための養成校がたくさんできてしまったんです。
私は関東の病院からお金を頂いて勉強していたのですが、わざわざ東北から人を呼ばなくても関東近辺で理学療法士が沢山いるような状況になってしまいました。結果、「奨学金を止めよう」という話になり、2年の時に奨学金が止まって学校を辞めなければいけなくなったんです。
今まで自分が考えてきたことが実現して、「ここで資格を取ればすべてがつながって、色々な可能性が見えてくるな」というところだったのですが、どうしたら良いかわからない状況になってしまいました。
しかし、お金がなかったのでしょうがなく学校を辞めて、仕事を探しました。そんな時にたまたまそこの校長先生が私の履歴書を見て、「教員免許があるだろう。障がい者のための何か仕事をしたいと思っているなら、教員となってそれをやればいいじゃないか」と言ってくださいました。
「教員か。宮沢賢治も教員になったしな」と、これは何かの縁だと思って1回やろうと考えました。
採用していただいた学校の校長先生には「教員になっても、普通の元気な子たちとやるつもりはあまりない」と言っていたのですが、その要望を聞いてくださり、一生懸命探して「言葉の教室」に配属してくださいました。
今は言語聴覚士という国家資格を持つ方が病院でやるのですが、その頃は公立学校の教員が地域の幼児から児童、中学校ぐらいまでの生徒に言葉の訓練、発音・発語などを訓練していました。
それをやっていると、言語聴覚士という国家資格が間もなくできて、公立学校の教員で言葉の教室に関わっていれば免除される部分があるということを耳にして、「これはいい」と思ったんです。
一度理学療法士が取れなかったけれども、初めて本格的にそういう資格をとって専門職として何か仕事ができるなと思ったのですが、普通学級に配属されてしまって(笑)
ある時職員室で放課後、テレビのニュースで、足で動く車いすを発明した先生について特集していました。
全く麻痺して動けないおばあさんが、ペダルの付いた車いすに乗せられた途端にスーッと足で動いてニコニコして病院内を回っている。その光景は頭から離れなれません。
当時担当していたクラスに足が不自由な男の子がいたので、「子供用はあるのかな?」と思い東北大に訪ねて行きました。
偉い医学部の教授が会ってくれるわけないと思いながら行ったところ、会ってくれました。
残念ながら子供用はないということだったのですが、患者さんが実際に乗っている姿を見せてくれました。その光景はテレビと同じでした。
私にとってはもの凄い衝撃であり、世間では全くブームにもなっておらず、研究でやっているとの話だったので「もったいないな」と感じました。もっとこういうものが本当に世の中にどんどん出てきてほしいなと思いました。
その後しばらく学校の教員をやっていたのですが、それが忘れられずに、先生と色々情報を交換していました。
その頃、大学ベンチャーがあちこちでどんどんでき始めて、東北大も足こぎ車いすの知財を使ってベンチャーを作るとなった時に、声をかけていただきました。この分野で頑張りたいと思い、教員を辞めたんです。
その大学ベンチャーには営業として入ったんですね。営業とかは全くやったことがなかったんですが、「広めたい」という想いがありました。
ですが、製造・販売・普及を全部小さなベンチャーが1社でやる。これはお金がいくらあっても足りないですよ(笑)
上場企業だったのでお金は沢山あって資金は集まったのですが、あっという間に使い果たして2007年に閉じてしまいました。
私は足こぎ車いすに惚れ込んでそのベンチャーに入ったのですが、別の事業がメインになっていて、その仕事が終わってから80キロぐらいある足こぎ車いすを車に積んで色々な施設を回っていました。
でも、どこも相手にしてくれないんですよね、ベンチャー企業は怪しいということで。
麻痺した方や脊髄損傷、怪我した方とか難病の方の足は動かないということは、専門職であればあるほど決めつけてしまっているんです。私も理学療法の学校にいたので理解できます。
でも、それじゃ世の中変わっていかないなと思いました。諦めの世界に入ってしまうのは悲しいと思いながら、400件ぐらい足こぎ車椅子を持って施設と病院を回って。
結局は全然売れずに会社は閉じてしまったのですが、これは諦めないでやったほうが良い事業であり、全然広まっていない現状ですから、子たちのところまでちゃんと行き渡らせて、それでもみんなが使わないのならそれはそういうものなんだろうと。まだ入り口さえやってないのに、これで閉じるんだと思って。
そこで、大学に掛けあって、発明者に「これをやりたい」とお願いしたら先生もその想いがあって、大学が放棄しようとしていたこの知財を全部譲っていただき、TESSという会社を創りました。
(インタビュアー:菅野雄太、撮影者:須澤壮太)